・『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン
・『人類が生まれるための12の偶然』眞淳平:松井孝典監修
・『人間原理の宇宙論 人間は宇宙の中心か』松田卓也
・人間原理
・『宇宙のゆらぎが生命を創った 現代物理学が人間存在の本質に迫る』桜井邦朋
・『宇宙の意志に人間は存在するか』桜井邦朋
・宇宙
そもそもわたしたちは、進化のために特別に何らかの努力をしているわけではない。いつもと変わらぬ日常生活を継続させているうちに、いつの間にか進化が起こってくるのである。
これは人間に限った話ではない。どのような生物も、意識的に進化への努力をしたことなどありはずがない。しかし、それでも進化が実際に起きているのである。
これは、言い換えると「進化とは生命が本来持っている、一つの機能なのだ」ということである。つまり、生命と進化は結局は同じ類(たぐい)のものであって、人類という生命種の存在意義を進化に求めるというのは堂々めぐりの議論なのである。
では、進化のためではないとすれば、私たちは何のために地球上に存在しているのだろう。それとも、私たちは宇宙の中で偶然に作られたものであって、特別な目的や使命など持っていないのであろうか。ここで、私はひとつの仮説を読者に提示したいと思う。
それは、「人類の誕生は、宇宙の進化から必然的に生み出された結果なのではないか」ということである。すなわち、この宇宙は私たち人間を誕生させるために存在しているのではないか、ということである。
私たちは、たまたま地球上に生まれたのではなく、宇宙そのものが私たちを必要としているから、知性を持った人種を生み出したのだ、ということだ。現代物理学では「宇宙の人間原理」と呼ぶ。最初にこれを提唱したのは、アメリカのロバート・ディッキー(ディッケと訳されることもある)という宇宙論学者であった。
【『宇宙には意志がある ついに現代物理学は、ここまで解明した』桜井邦朋〈さくらい・かずとも〉(クレスト選書、1995年/徳間文庫、2001年『宇宙には意志がある 最新科学がついに解明』)】
見返しに竹内均〈たけうち・ひとし〉の推薦文がある。「“宇宙の神秘”に挑戦した名著」と。
「大数仮説が成立する時に人間が存在している不思議さを、人間の存在による必然と考えたのがロバート・H・ディッケである。ディッケは宇宙の年齢が偶然ではなく、人間の存在によって縛られていることを示した。それによれば、宇宙の年齢は現在のようなある範囲になければならないという。なぜなら、宇宙が若すぎれば、恒星内での核融合によって生成される炭素などの重元素は星間に十分な量存在することができないし、逆に年をとりすぎていれば、主系列星による安定した惑星系はなくなってしまっているからである。このように宇宙の構造を考える時、人間の存在という偏った条件を考慮しなければならないという考え方を弱い人間原理と呼ぶ」(Wikipedia)。
一方、「強い人間原理とは、地球上の人間(知的存在)が宇宙の歴史や構造を制約するという考え方であり、人間は宇宙の中で何ら特権的な存在ではないという、コペルニクス以降の常識となった宇宙原理と対立する考えである」(強い人間原理と複数世界論)。
ケンブリッジ大学のブランドン・カーターが「強い人間原理」を発表したのは1974年。以下のベージが詳しい。
・宇宙物理学 ブランドン・カーターの人間原理 (1) | 星空が好き、猫も好き
私が人間原理を知ったのは20年ほど前のことで、思わず膝を打った覚えがある。やや、後出しジャンケン的で、目的論的な志向だが、ヒトが進化の到達点であるならば首肯できよう。ここから、ヒト2.0とか3.0に進化すれば話はまた別である。
桜井邦朋は京都大学の助教授を経て、1968年にNASA上級研究員、1975年にメリーランド大学教授を務めた。
上記テキストの前で、宇宙に存在する物質は基本元素が共通している事実を振り返り、「なぜ私たちはここにいるのだろうか。私たちは、どこから来て、どこへ行こうというのだろうか」と記している。ポール・ゴーギャンと全く同じ命題だ。
「宇宙創生が宇宙意識から始まった」とすれば宇宙には意志がある。そしてその意志が「決定論」として働く可能性を否定できない。ここ一年ほどの読書経験を通して、私は人間原理から意識原理に傾き、自由意志がさほど重要には思えなくなってきた。
ネドじゅんが「私という存在は神様が坐る椅子みたいなものだ」と語っていた。己(おのれ)を空(むな)しくすれば至ることができる境地なのだろう。人間が欲望装置として機能するのをやめた時、次なる進化が訪れるのではないか。
ネドじゅんに倣(なら)えば、「私という存在は神様が設置したアンテナみたいなものだ」と考えている。