古本屋の殴り書き

書評と雑文

目覚めの一撃/『つかめないもの』ジョーン・トリフソン

『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ダイレクトパスの基本と対話』グレッグ・グッド
『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル

 ・聖なる現実
 ・今ここにあること
 ・今この瞬間の生き生きとした性質
 ・「いつか」という欺瞞
 ・目覚めの一撃

悟りとは
必読書リスト その五

 ひとつ興味深いのは、著者が決定的な「目覚めの一撃」を経験していないという点だ。非二元について、あるいは現実や自己の本質について本を書いたりミーティングをしていたりする人たちは、「ビフォー」と「アフター」のコントラストが際立つ劇的な経験をしていることが多い。著者にはそれがない。「一撃」がやって来るのを待つ日々を何十年も過ごしたというが、結局そのようなことは起こらず、前述のとおり、シカゴに住んでいるあいだに探求が自然に終わっていたことに気がついたらしい。(訳者あとがき)

【『つかめないもの』ジョーン・トリフソン:古閑博丈〈こが・ひろたけ〉訳(ナチュラルスピリット、2015年/原書、2012年)】

 本書を一読すればジョーン・トリフソンが悟っていることに疑問の余地はない。この件(くだり)を読んで痛感したのは、私が「目覚めの一撃」という刺戟(しげき)を待望している事実だった。むしろ、悟りそのものよりも何らかのドラマや衝撃を欲しがっている節すらある。

 よくよく考えると、「目覚めの一撃を経験してない」のは毎朝の覚醒も同様だろう。目覚めるたびに「悟りを開く」人はいない(笑)。でも、本当はそこで悟らないといけないのだ。瞬(まばた)きするたびに悟ったっていいはずだ。

 逆説的な話がある。徐々に視力が衰えてゆく人は自分が盲目になった事実に気づかないという(『目の見えないアスリートの身体論 なぜ視覚なしでプレイできるのか伊藤亜紗)。

「悟り」に対する身勝手なイメージが悟りから遠ざかる最大の要因だ。「悟りはかくあるべき」と想定した瞬間から悟りは夢と化し、期待に胸を膨らませた途端に渇愛が生まれる。それは、「悟りたい」という欲望に他ならず、「お金が欲しい」「モテたい」という次元と大差がなくなる。

 同じタイプの人が『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』に出てくる。