・『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
・『今、永遠であること』フランシス・ルシール
・『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
・『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ダイレクトパスの基本と対話』グレッグ・グッド
・『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル
・聖なる現実
・今ここにあること
・今この瞬間の生き生きとした性質
・「いつか」という欺瞞
・目覚めの一撃
〈ここ・今〉のような言葉や、「これが〈それ〉だ」といった言いかたは、位置も境界も途切れもない、この永遠の今の瞬間を指し示しています。〈ここ・今〉はつねにここにあって、絶えず変化を続けています。〈ここ・今〉は、車の行き交う音、リンゴの味、青空の青さ、頭痛の感覚、思考と想像の生み出すストーリーと頭の中の映画、熟睡という非経験として現れます。私が指し示しているのは、もっとも明白で、もっとも身近にあって、まったく否定しようがないもの――【今あるもの】という裸の現実――、こうしてあるままにあるということで、それにはどんな信条も必要なく、疑うこともできません。
今の瞬間に起こっているこの経験についての【解釈】(それは【何】なのか、あるいは【なぜ】そうなるのか)は、どんなものであれ疑うことができますが、あるという【そのこと】は疑えません。今の瞬間に起こっているこの経験について導き出したどのような【結論】(たとえば、経験とは化学物質や原子や分子や粒子やクォークや弦で構成されている外部世界から入力された感覚にもとづいて脳が生み出したものだとか、すべては意識だとか、夢だとか幻想だとかいった結論)もすべて疑うことができますが、今この瞬間の出来事をそのまま【経験している】というそのこと、【ここにいるということ】、【今にあるということ】、【そうなっているということ】、【これ】については何かを信じる必要はありませんし、どうやっても否定できません。経験は幻想だ、あるいは夢だと信じていたとしても、経験は変わらず否定しようもなく現れつづけます。【『つかめないもの』ジョーン・トリフソン:古閑博丈〈こが・ひろたけ〉訳(ナチュラルスピリット、2015年/原書、2012年)】
当たり前のことを言っているように聞こえる。「わかりきったことではないか」と反応したくなる。だが違うのだ。我々は、「今にある」ことを見失っている。悩みに苦しむ人は「過去にある」し、希望に燃える人は「未来にある」。
私はといえば、長いテキストを三つに分けて紹介するので、「明日、また書かなきゃな」と今を見失っているのである。
本当に心の底から今この瞬間に感じている感覚を味わい尽くすことは難しい。私は刻々と流れる生や時間を浪費あるいは消耗しているだけではないのか?
このテキストを繰り返し読んで浮かんでくる言葉は「法」である。法の字は「水(=さんずい)が去る」とのつくりだ。ジョーン・トリフソンが語っているのは諸法無我の諸法ではないか。「今ここにある」という事実が天の配剤なのだろう。恒星の周囲をまわる惑星のように何らかの法則性で定められた位置なのだ。
例えば、「上手く解説しよう」とか、「利いた風な口をきく」とか、「俺は知ってるぞモード」でキーボードを叩けば、私の「今」は死んでいるのだ。そうではなく、ジョーン・トリフソンが発する光を、自分の律動に従いながら、自転と公転の歩みに則りながら、ただ浴びることが正しいのではないか。
今ここにあることが諸法の姿なのだ。それが存在論に傾かないところに悟りの妙味がある。
