古本屋の殴り書き

書評と雑文

エリートの勘違い/『清明 隠蔽捜査8』今野敏

『隠蔽捜査』今野敏
『果断 隠蔽捜査2』今野敏
『疑心 隠蔽捜査3』今野敏
『初陣 隠蔽捜査3.5』今野敏
『転迷 隠蔽捜査4』今野敏
『宰領 隠蔽捜査5』今野敏
『自覚 隠蔽捜査5.5』今野敏
『去就 隠蔽捜査6』今野敏
『棲月 隠蔽捜査7』今野敏
・『空席 隠蔽捜査シリーズ/Kindle版今野敏

 ・言葉の虚実
 ・エリートの勘違い

・『選択 隠蔽捜査外伝/Kindle版今野敏
・『探花 隠蔽捜査9今野敏

ミステリ&SF

 公安は一筋縄ではいかない。こちらからの情報だけを吸い上げ、自分たちのほうからは情報提供をしない、などという例がざらにある。
 警察すべてが国のため国民のために働いていることは疑いのない事実だ。だが、それが当たり前すぎて、つい忘れてしまいがちだ。
 根幹を忘れると、枝葉にこだわるようになる。つまり、セクショナリズムや極端な秘密主義だ。いずれも自分が属しているコミュニティーを守ろうとする低次元の欲求から来ているのだと、竜崎は思っている。


【『清明 隠蔽捜査8』今野敏〈こんの・びん〉(新潮社、2020年新潮文庫、2022年)以下同】

 この公安とは、外事第二課とあるから公安調査庁ではなく警視庁公安部のこと。一介の捜査員ではあるがエリート特有の鼻持ちならない態度で竜崎や伊丹にも偉そうな口を利く。「責任のレベルが違う」と言わんばかりの思い上がりがにじみ出ている。こうしたセクト意識は村意識の残滓(ざんし)か。

 大東亜戦争における陸軍と海軍が典型だが、日本社会の宿痾(しゅくあ)は「内輪揉め」である。そこから自然な流れで「いじめという文化」が形成される。役所が規制をかざして民間をいじめ、予算をちらつかせて天下りを要求する実態が変わることはないだろう。なぜなら我々がそれを望んでいるからだ。ただありつけていないだけで。

 そのとき、若手の相葉が言った。
刑事部が殺人犯を追うのは勝手です。しかし、公安には公安の役割があることをご理解いただきたいと思います。中国の政治犯が中国司法当局に処分されたということです。それについては高度な判断が必要なのです」
「高度な判断?」
 竜崎は尋ねた。「それはいったい、どういうことだ?」
 本当にわからなかった。
 相葉はひるむ様子もなく言った。
「外交を視野に入れた判断です」
「外交……? 殺人を無視することで、外交の役に立つということか?」
 相葉は顔をしかめた。
「国家の安全にも関わることなのです」
「まったく理解できない。殺人犯を野放しにしているほうが、ずっと国家の安全を脅かしているんじゃないのか?」
「殺人事件で国が滅んだりはしません」
 竜崎はこの言葉に驚いた。
「公安は優秀だと聞いていたが、どうやらそれは間違いのようだな」
 相葉がむっとした顔になる。
 竜崎は続けて言った。
「外交を視野に入れた判断だと言ったな? 外交とは何だ?」
 相葉はこたえた。
「国家間の交渉です」
「交渉する国家同士は対等の立場でなければならない。それが外交の前提だと思うが、どうだ?」
「おっしゃるとおりだと思います」
「ならば、自国の中で、他国の誰かに好き勝手なことをやらせないことだ」
「は……?」
「張浩然を殺害した犯人を何が何でも捕まえなければならないということだ。でなければ、舐められる」
「舐められる?」
「立場が逆だったらどうか、考えてみろ、君が中国に潜入して、日本人の犯罪者を密かに処分したとする、それを察知した中国の司法当局が黙っていると思うか?」(中略)
「こちらが中国政府の事情だの、当局の思惑だのを勝手に推し量って、彼らのやりたいようにやらせているのだとしたら、それは間違った判断だろう。それが高度な判断だとは、とうてい思えない」

 竜崎もまたキャリア官僚だが彼は出世を目的としていない。最前線の現場に身を置くことをよしとしている。公安の若手はエリート意識によって物事の重みがわからなくなっている。

 ところが政治家の中にもっと酷いのがいた。中国への謝罪外交を展開した宮沢喜一である。しかしながら自民党内でこれを指摘する人はいない。河野談話については安倍首相も踏襲した。左翼が付け込む隙(すき)を与えているようなものだ。

 竜崎伸也が体現するのは本来あるべきエリートの姿で、日本においては侍と呼ばれる生き方なのだ。個人的には儒教よりも、革命を容認する老荘思想に共感を抱いている(主君が誤った場合は殺害可能)。それでも尚、竜崎の職務に忠実であろうとする姿勢(忠義)は一服の清涼剤に感じる。