古本屋の殴り書き

書評と雑文

病になるときには、病になるがよろしく候、死ぬときには、死ぬがよろしく候/『白隠禅師 健康法と逸話』直木公彦

『古武術と身体 日本人の身体感覚を呼び起こす』大宮司朗

 ・気海丹田を悟る
 ・病になるときには、病になるがよろしく候、死ぬときには、死ぬがよろしく候

『静坐のすすめ』佐保田鶴治、佐藤幸治編著
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール
『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん

お腹から悟る
身体革命
必読書リスト その五

 ある禅僧が「病になるときには、病になるがよろしく候、死ぬときには、死ぬがよろしく候」といったのは、病も死も、そのまま永遠の生命の織りなせる此の世の仮の芝居と見て、淡々たる気持でそれを超越して、永遠の生命の自覚とともに、こ(ママ)の世の生をいとおしみながら物語ったのではないでしょうか。
  丹田に 主心さだめて よく見れば
    ぢきに至善 生きた極楽
 生きた極楽! 生きた極楽! すべての生けるものは生きたまま生ける明るい極楽に住み、明光浄土に住んで働いているのであると禅師は説きます。
(中略)
 おのれの魂のふる里にかえれ、おのれの生命の本願に立ちかえれ、それこそ、真の自己なのだ。それこそ自己本身の姿であり、真の自己なのだ。されば真の自己にふり返れ。そして、そのためには、気海丹田に心気をみたせ、丹田に主心をさだめて落ちつけよ。心を静め、静かなる永遠のひびきを聴け、魂の故郷を思いだしてふり返れ、おのれをおのれたらしめ永遠に生きはたらきつづける真のわが生命にふり返り、永遠の生命とともに生きて、流れつづける大生命に帰命せよ。おのれの真の本体を徹見して、永遠の生命を知り、大生命の尊さ、大生命とともに生かされている自己の本性の有難さ尊さを悟れ、すなわち、大生命は仏の生命にして、なんじらは、とうといとうとい仏の生命なることをしれ、衆生本来仏なり、なんじらはすなわち大生命の子であり、仏の子であるのだぞよ、いやいや仏そのもの、大生命そのものであるのあるのだぞよ、生きよ! 働けよ! 力強く生きよ! 永遠を生きよ! 実在を生きよ! 仏そのものを生きよ! 仏となって働け! と、心の奥底から感じられてまいります。

【『白隠禅師 健康法と逸話』直木公彦〈なおき・きみひこ〉(日本教文社、1955年/改訂版、1975年)】

内観の秘法」を著者が敷衍(ふえん)した件(くだり)である。

「病になるときには、病になるがよろしく候、死ぬときには、死ぬがよろしく候」との言葉がずっしりと肚に響いた。生と死がリズムであれば、老と病は摂理なのだろう。

 生命現象はエントロピーを外部に捨てることで成り立っている(エルヴィン・シュレーディンガー)。しかしながらマクロ宇宙においてエントロピーは必ず増大し、時間の矢は一方通行で進む。時間が実在しないことを思えば、やはり人生は草露(そうろ)のようなものか。

 直木の言葉はワンネスを示している。仏を「気づき」に置き換えればストンと腑に落ちる。

 1~2週間ほど前から腹の右側がしくしく痛みだした。私は病気らしい病気を経験してないため痛みに弱い。静坐法を少々実践し始めたところ落ち着いた。既に60年は生きたので、そろそろ死ぬ準備をする時期だ。若い頃は、「花火のようにパーっと散って死にたい」と考えてきたが、やはり「枯れるように死ぬ」のが自然であり、至善だろう。山野に斃(たお)れて動物たちに食べてもらうのが理想的だ(笑)。鳥葬でも一向に構わない。

 死は永遠を開く扉である。人間のスケールで短い人生を恨むのは間違いだ。