・『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥
・『仏陀の真意』企志尚峰
・『必生(ひっせい) 闘う仏教』佐々井秀嶺
・『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
・感情と思考とを分ける
・善き思いで善き言葉を口にする
・三毒とは その一
・三毒とは その二
・三毒とは その三
・心=反応
・『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬
・『これも修行のうち。 実践!あらゆる悩みに「反応しない」生活』草薙龍瞬
【貪欲】――これは過剰な欲求のことです。(中略)
いわゆる「独占欲」や「特別意識」や「プライド(自惚れ)」なども、この貪欲から出てきています。
貪欲を人間関係に持ち込むと、「相手への期待」になります。ないものねだり。押しつけがましさ。たいていは「相手にもっとこうなって欲しい」「こうしてもらうのが当然だ」という過剰な要求、思い込みになり、感情的なトラブルを招くことになります。
また、焦りや不満、苛立ちといった感情には、まずこの貪欲が隠れています。【『ブッダの思考法でアタマすっきり! 消したくても消えない「雑念」がスーッと消える本』くさなぎ龍瞬〈りゅうしゅん〉(大和出版、2012年)】
振り仮名がないが仏教用語としては「とんよく」と読む。三毒とは根本的な煩悩で、貪(とん/むさぼり)・瞋(じん/いかり)・癡(ち/おろか)のこと。人間の苦しみは三毒によって形成される。つまり、三毒こそが苦の因なのだ。
後期仏教(大乗)では三毒が三悪道に対応しており、貪➡餓鬼道、瞋➡地獄道、癡➡畜生道となる。私の感覚だと「プライド(自惚れ)」は修羅道に入れる。勝他(しょうた)の念強きをもって修羅とする故に。
「相手にもっとこうなって欲しい」「こうしてもらうのが当然だ」という過剰な要求、思い込み――見事な説明である。私はかなり面倒見がいい方なのだが、相手に対する要求も強い。運動部出身にはありがちなタイプだと思う。それが貪欲によるものであるとは気づかなかった。
Wikipediaに有益な情報があったので転載しておこう。
三毒の反対としては、三心所が挙げられる。
・無癡(amoha, 非妄想) 、般若(paññā, 知恵)
・無貪(alobha, 無執着)、布施(dāna, 旦那)
・無瞋(adveṣa, 非憎悪) , 慈(mettā, 与楽)
三毒の誤解
俗に、「妬む、怒る、愚痴る」を「仏教の三毒」として紹介することがあるが、そのような用例は仏典にはなく、誤りである。これらも仏教では煩悩として克服すべきものだと考えられているが、この三つは大局的には瞋に包摂される煩悩である。また、癡は日本語での「愚痴をこぼす」ということではなく、もっと根源的な人間の「愚かさ」を表す概念である。チベット密教では「嫉妬」(妬み)は「無明」と「悪見」の二つを併せたものとされる。
貪・瞋・癡を貪・瞋・癡と自覚できないところに無明(むみょう)の原因がある。生存本能に基づく欲望は簡単に消すことができない。貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、癡(おろか)が現れた瞬間に、ありありと見つめることが大切なのだ。直ちに深々と息を吸い込み、ゆっくりとそれらの状態を吐き出すつもりでゆっくりと息を出せば、かなり収まる。
心には様々な雲が流れてくる。それが思考だったり感情だったりするわけだが、自動的に現れる雲を我々は眺めることすらせずに翻弄されえる。多くの場合、思考も感情も幻想である。思い詰めた分だけドツボにはまる。思春期の恋愛を振り返ってみればよい。妄想そのものだ(笑)。
三毒を癌のように恐れよ――と自分自身に言い聞かせる。