古本屋の殴り書き

書評と雑文

足の裏は全身を支配している/『足の裏は語る』平澤彌一郎

『足裏を鍛えれば死ぬまで歩ける!』松尾タカシ、前田慶明監修
『間違いだらけのウォーキング 歩き方を変えれば痛みがとれる』木寺英史
『身体構造力 日本人のからだと思考の関係論』伊東義晃

 ・足の裏は全身を支配している
 ・足裏の面積は1日の時間によって変化する

イス軸法との出会い
『身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生』齋藤孝
『息の人間学 身体関係論2』齋藤孝

身体革命

 足の裏を調べ始めてから、もう半世紀近くになる。
 これは、信州で小学校の教師をしていたころ、子供達からもらった研究テーマである。
 これまでに、延べ40万人以上の人の足の裏を調べてきた。不思議なことや、大切なことが、次から次へと発見されてゆく。(まえがき)


【『足の裏は語る』平澤彌一郎〈ひらさわ・やいちろう〉(筑摩書房、1991年ちくま文庫、1996年)以下同】

 著者名についてはWikipediaに準じた。人の氏名については敬意を払うべきであると考えているゆえ、書籍の表記も示しておく。

「弥」の異体字である。

 ピドスコープ(接地足底投影装置〈せっちそくていとうえいそうち〉)で足の裏を調べると、ご機嫌の良い時と悪い時とでは、指の着き具合が大分違う。女性の場合は、特に気分の良い時には小指が強くしっかりと着き、不機嫌の時はガラス板の平面に着きが悪いから面白い。この傾向は生理の時に顕著である。

 ピドスコープは平澤が開発した機器で、足裏の接地部分を測定するものだ。情動と身体のバランスには相関関係があるのだろう。戦後教育に毒され、科学の洗礼を受けると、心身二元論が当たり前となってしまう。本来、日本人が大切にしてきたのは「姿勢」である。姿勢とは、心と体が一致した状態と考えられてきた。武士の切腹という残酷な風習も、肚(はら)の内(内蔵)=心を晒(さら)す意味があったのだろう。

 なんとなく日本の伝統的な格闘技が相撲であることにも関連しているような気がする。土俵の上では足裏の摩擦力が勝敗を分ける。上半身から繰り出される技も、相手と自分の微妙な重心移動を操作するものだ。ついでに記しておくと、相撲は世界一、平和的な格闘技であると常々思っている。「村の力自慢」と替わらないようにすら見える。

 右の鼓膜がない人が立つと、普通の人と違った構えになる。上半身をやや右側にねじり、正常な耳を、からだの中心にもってゆこうとする。すると、全身のバランスが崩れてしまうので、左足の裏に力を入れてそれを調節する。つまり、左足の踏ん張りが、その人の聴力を補佐しているのである。足の裏は、歩いたり、とんだり、はねたりしている時だけ働いているのではない。やはり、足の裏は全身を支配していることが分かる。(中略)
 音という刺激を受けるのは、聴覚という感覚受容器であるが、これらの人達の例から言えることは、「ものを聞く」時は、全身の各部分が聴覚の働きをしているのである。

 左右差で捉えるのは眼も同様である。聴力や視力の傾きが身体(しんたい)に与える影響は腑に落ちる。更に脳機能の左右差を思えば、バランスの微妙と複雑が垣間見える。

 常歩(なみあし)から本書を辿り、イス軸法に巡り合ったのも偶然ではあるまい。