古本屋の殴り書き

書評と雑文

パーリ原典全訳/『呼吸による気づきの教え パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解』井上ウィマラ

『古武術と身体 日本人の身体感覚を呼び起こす』大宮司朗
『白隠禅師 健康法と逸話』直木公彦
『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『釈尊の呼吸法 大安般守意経に学ぶ』村木弘昌
『大安般守意経入門 苦を滅して強運になる 正しい呼吸法で無心な判断を』西垣広幸

 ・無明とは
 ・パーリ原典全訳

『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ

お腹から悟る
身体革命
必読書リスト その五

呼吸による気づき:16の考察法

 それでは修行者たちよ、呼吸による気づきを、どのようにして何回も繰り返し修行したならば、どのように大きな効果があり、どのように大きな成果がもたらされるでしょうか。
 修行者たちよ、この教えと導きの中で、修行者は森に行き、あるいは樹下に行き、あるいは空家に行って、足を組んで坐り、身体をまっすぐに保ち、気づきを(呼吸という)対象に満遍なく向け、気をつけて息を吸い、気をつけて息を吐きます。
 1.長く息を吸っているときには、「長く息を吸っている」と知り、長く息を吐いているときには、「長く息を吐いている」と知る。
 2.短く息を吸っているときには、「短く息を吸っている」と知り、短く息を吐いているときには、「短く息を吐いている」と知る。
 3.「全身を感じながら息を吸おう」と訓練し、「全身を感じながら息を吐こう」と訓練する。
 4.「身体の動きを静めながら息を吸おう」と訓練し、「身体の動きを静めながら息を吐こう」と訓練する。
 5.「喜びを感じながら息を吸おう」と訓練し、「喜びを感じながら息を吐こう」と訓練する。
 6.「リラックスしながら息を吸おう」と訓練し、「リラックスしながら息を吐こう」と訓練する。
 7.「心の動きを感じながら息を吸おう」と訓練し、「心の動きを感じながら息を吐こう」と訓練する。
 8.「心の動きを静めながら息を吸おう」と訓練し、「心の動きを静めながら息を吐こう」と訓練する。
 9.「心を感じながら息を吸おう」と訓練し、「心を感じながら息を吐こう」と訓練する。
 10.「心を喜ばせながら息を吸おう」と訓練し、「心を喜ばせながら息を吐こう」と訓練する。
 11.「心を安定させながら息を吸おう」と訓練し、「心を安定させながら息を吐こう」と訓練する。
 12.「心を解き放ちながら息を吸おう」と訓練し、「心を解き放ちながら息を吐こう」と訓練する。
 13.「無常であることを繰り返し見つめながら息を吸おう」と訓練し、「無常であることを繰り返し密ながら息を吐こう」と訓練する。
 14.「色あせてゆくのを繰り返し見つめながら息を吸おう」と訓練し、「色あせてゆくのを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。
 15.「消滅を繰り返し見つめながら息を吸おう」と訓練し、「消滅を繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。
 16.「手放すことを繰り返し見つめながら息を吸おう」と訓練し、「手放すことを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。
 修行者たちよ、このように呼吸による気づきを何回も繰り返し修行したとき、大きな効果があり、大きな成果があるのです。(225~227ページ)

【『呼吸による気づきの教え パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解』井上ウィマラ(佼成出版社、2005年)】

 一度必読書としてその後外した。最大の理由は自身の悟りについて全く触れていないことだ。更に後半でサンガ礼賛が目立つのも感心しない。悟りの自由よりも、上座部教団への隷属を感じた。

 文章が悪いわけではないのだが、中途半端な姿勢が本書全体を暗くしていて明晰さを欠いている。自分の理解の程度を拳で握って隠しながら、わかったような口調で解説しているように映るのだ。

 しかし巻末に「パーリ原典全訳」があったため、再び必読書とした。わずか12ページだが金塊のような重みがある。

 既に何度も書いてきた通り、日本語の横書きは漢字の香りを失わせる。個人的には教科書や論文ですら読む気が失せる。よほどのことがない限り私は横書きの書籍を読まない。

 本書は手引きとして使うべきで、全面的に信じ込んでしまうと危うい。例えば本テキストでいえば、「感じながら」は「観じながら」が正しいような気がする。ブッダが感覚を重んじたとは思えないからだ。感覚は主観に基づいて形成されており、大概の場合誤っているのだ。五感は世界を手繰り寄せる機能だが、あまりにも錯覚や類推が多い。むしろブッダが説いたのは五感情報を相対化し、離れて観察することであったはずだ。

 というような指摘をしたくなる箇所が随所に見られ、多少の仏教知識がなければ鵜呑みにしてしまうことだろう。

 また、「アーナーパーナサティ・スッタ」と「スッタ」(経)を付け加えた理由も不明だ。

「16の考察法」は誤りだ。「観察法」である。ブッダが考察や思考を勧めたことはない。あまりにも誤謬が多いので誤謬を探すのも一興か。

 基本的には「今ここ」と生老病死の四苦を見つめるところに目的があることがわかる。

 私はライダーだが、バイクに乗る目的は風を感じることにある。シャワーが爽快に感じるのも風を浴びる感覚と近いためだろう。とすれば、内なる風である呼吸もまた本来は快感であるはずなのだ。